名古屋高等裁判所金沢支部 昭和34年(う)197号 判決 1960年3月22日
被告人 原口伊勢吉
主文
原判決を破棄する。
被告人を罰金弐千円に処する。
右罰金を完納することができないときは金弐百五拾円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
原審における訴訟費用中証人川崎きみを、同伊豆蔵節子、同石黒照子、同岩見二三子、同佐々木愛子に支給した分は被告人の負担とする。
昭和三十三年十月九日附起訴状公訴事実第三(原判示第二の暴行)及び第五(原判示第四の不法監禁)の点はいずれも無罪。
理由
原判示第二(暴行)に対する事実誤認の論旨について。
原判決は罪となるべき事実の第二として「被告人は同年(昭和三十二年)九月中旬頃前記いづくら旅館本館男湯前廊下に於て同旅館炊事婦竹中重子が風呂の温度を調節する源泉調節バルブの把手をいじつているのを目撃し『何故お前はそんなものにさわるか』と申し向けて、手拳で同女頭部を殴打し、以て同女に対し暴行を加えた」旨認定し其の証拠として(一)検察官に対する被告人の昭和三十三年十月八日附供述調書中「支配人となつてからは女中等に対し厳しく小言を言い、私の言う事を聞かぬ者に対しては容赦なく辞めさせるとか或は見込のある者と思われる者に対しては頬ぺたの一つも殴りつけたりした事もあり、私が支配人になつてから入れ換えた女中が七、八名もありますし、又愛のむちを加えた即ち殴りつけた女中も四、五名あります。尤も殴りつけた女中の内数回殴りつけた者もある」旨の供述記載(記録三二〇丁裏以下)(二)証人阪本茂子尋問調書を挙示していることは所論のとおりである。論旨は「原判決挙示の証拠を以て原判示事実は認めることができないから原判決は事実誤認である」旨主張する。よつて按ずるに原判決の挙げる検察官に対する被告人の供述調書中同人の前記供述記載部分は具体的に原判示日時及び場所において被告人が竹中重子に対し手拳で同女の頭部を殴打した点を供述しているものではないから右殴打による暴行は右供述記載部分によつては認められないのみならず右供述調書中の被告人の他の供述記載部分(同調書第五項)によれば被告人は右竹中重子に対する殴打による暴行の点を明白に否認していることが認められるのである。従つて右供述調書は原判示事実認定の証拠とすることはできない。次に原判決挙示の証人阪本茂子尋問調書を検討するに、同証人は被告人が原判示男湯前廊下で、うつむいて頭をかかえていた竹中重子の後部上方から手を挙げているのをちらつと見たのみであつて、被告人が竹中重子を殴る現場は之を目撃していない旨供述しているものであること論旨の指摘するとおりである。そうすれば証人阪本茂子尋問調書によつても原判示事実は之を確認することができない。尚原審第三回公判調書中証人竹中重子の供述記載として同女が被告人より原判示の如き暴行を受けた旨の原判示認定にそう供述部分が存し、当審における同証人の尋問調書も右と同趣旨である。併し乍ら原審が昭和三十三年十月九日附起訴状公訴事実第一(被告人の竹中重子に対する傷害の点)につき原判決の理由末尾において証人竹中重子の原審第三、第五回各公判調書中の供述記載が真実性を欠き措信するに足らぬものであることを説示しているのと同様に、当審においても右の原判示事実につき証人竹中重子の当審における尋問調書に徴し同証人の原審並びに当審における供述は信憑性なきものと認めるを相当とする。当審において提出せられた検察官に対する竹中重子及び阪本茂子の各供述調書も右心証を覆えすに足らず他に右原判示事実を確認するに足る証拠がない。そうしてみれば原判示事実は之を確認するに由なきところである。
原判決は結局証明十分ならざるに罪となるべき事実を認定したものと謂うべく、事実誤認の論旨は理由があり原判決は破棄を免れない。
原判示第四(不法監禁)に対する事実誤認の論旨について。
原判決は罪となるべき事実の第四として「被告人は昭和三十三年七月上旬頃の午後十時三十分頃右いづくら本館炊事婦小館清子(三十五年)が酒に酔つて同家台所調理台にもたれ寝ているのを見て憤慨し、同女を同所から女湯脱衣場まで運び込み、入口の戸の外部に取付けてある首廻掛金を掛けて内部から容易に脱出することを得ざらしめ、以て翌日午前七時頃まで同女を不法に監禁したものである」旨認定したことは所論のとおりである。論旨は「被告人が原判示の如く小館清子を女湯脱衣場に運び入れ、其の入口の戸の首廻掛金を掛けた事実はあるが、被告人には不法監禁の犯意がないから原判決は事実誤認である」旨主張する。
按ずるに証人小館清子の原審並に当審における各尋問調書、原審における証人佐々木愛子尋問調書、原審第五回公判調書中証人落合園子の供述記載及び検察官に対する被告人の昭和三十三年十月八日附供述調書第七項(記録三二七丁)原審並びに当審における各検証調書、原審及び当審における被告人の供述を綜合すれば、原判示小館清子は酒を飲むと“だらし”がなく、前後不覚となつて便所で寝たり、寝小便をたれて衣服を汚したり醜態を演じ仕末に負えぬ状態になる性格を有するところ、本件当夜も同女は竹中重子と口論して、憂さばらしに酒を飲み、酩酊の挙句、台所の調理台にもたれて眠りこけ、寝小便をして衣服を濡らしており、巡回に来た同旅館の主人よりも注意があつたのであるが、被告人は同旅館の支配人として旅館の業務を管理し同旅館の女中や炊事婦を指揮監督すべき業務上の職責より営業上の必要と同女に対する保護の処置として、同女を其の儘台所に放置することは炊事の妨害となり、又同女を二階の女中部屋に運び上げて寝させるには同女の衣服が寝小便で濡れているので適当でなく、又階下ホールや廊下其の他の開放された場所では営業上も差支えると共に、同女が昏睡状態にあるため他の男客より貞操等を侵される虞れもあることを慮り、已むなく同女を女湯脱衣室板の間に運び入れて寝かせ、同室の戸の首廻掛金を掛けて同室への出入を閉め切つたこと、そして其の取扱いについては手荒な措置をしなかつたこと、若し同女が意識を回復して人を呼べば近くの居室に居る被告人に容易に聞こえ、被告人は同女のため適当な措置をなし得る態勢にあつた事実を認めることができる。右認定事実によれば被告人は同旅館の支配人たる業務上の職責より、昏睡状態にあつて寝小便でよごれた見苦しい姿態を浴客並に従業員の視界より避ける営業上の必要をも勘案し同女に対する保護の必要上窮余の手段として同女を女湯脱衣室に運び入れたものであつて、被告人の右所為は支配人としての正当な業務行為に属するものと謂うべく、従つて違法性がないと共に不法監禁の犯意を欠くものと謂わねばならぬ。記録を精査するも右認定を左右するに足る証拠はない。
事実誤認の論旨は理由があり原判決は破棄を免れない。
原判示第一、第三(各暴行)に対し事実誤認、法令適用の誤ありとする論旨について。
記録によれば原判決は挙示の証拠を綜合して被告人の岩見二三子に対する原判示暴行(第一事実)佐々木愛子に対する原判示暴行(第三事実)を認定し刑法第二百八条を適用処断したことは所論のとおりである。論旨は「被告人は旅舘いづくら本舘の支配人たる立場から女中を指揮監督し女中をして旅舘営業の目的に奉仕させる任務を負うものであるから、かかる任務に基き、女中等を訓戒のために本件所為に出たもので刑法第三十五条による正当の業務行為として処罰を免れるべきものである。よつて原判決が被告人の所為に刑法第二百八条を適用して有罪を認定したのは事実誤認であると共に法令の適用を誤つたものである」旨主張する。よつて先づ原判示第一事実につき按ずるに原審第四回公判調書中証人伊豆蔵節子同川崎きみをの各供述記載及び原判決挙示の各証拠を綜合すれば、旅舘いづくら本舘の支配人たる被告人は同旅舘別舘において従業していた岩見二三子の被告人に対する不遜な電話応答の態度に憤慨し、原判示日時場所において両手で同女の首の辺りを締めるようにして押し、以て同女に暴行を加えた事実を肯認することができる。之によれば同旅舘本舘の支配人たる被告人が同旅舘別舘の女中事務員等を監督すべき任務をもつていても、そして又岩見二三子の態度が不遜であつても、それだからといつて右認定の事情のもとにおいて同女に対する被告人の右暴行が正当業務行為とは認められないから違法性を阻却する理由はない。原判示第一に対する所論はいずれも採用し得ない。次に原判示第三事実につき考察するに、原判決挙示の証拠殊に検察官に対する被告人の昭和三十三年十月八日附供述調書第六項(記録三二五丁裏以下)及び当審第四回公判における被告人の供述を綜合すれば原判示の佐々木愛子はいづくら本舘の女中として従業中しばしば飲酒酩酊しその酒癖極めて悪く従来非難すべき行状が多かつたものであること、及び原判示の昭和三十二年十月下旬頃の夜、被告人は右佐々木愛子が浴客から酒の註文を受けながら勝手にこれを拒否し之に応じなかつたため同客の係り女中を他の女中に変更したところ、同女は之を憤慨し飲酒酩酊の上、午後十二時頃被告人に反抗し、自分の馴染客を他の女に世話した旨大声で喚き騒いだので被告人は同女の行動態度が同旅舘の宿泊客等に対する営業上の妨害となるため、之を制止すべく同女に対し女中部屋へ戻つて休むよう数回に亘り勧めたが、同女が之を肯んぜず尚も騒ぎ続けるので、之を取鎮めるべく、同旅舘内において顔面を数回殴打した上、女中部屋に連れて行き寝かしつけた事実を肯認することができる。右認定事実によれば佐々木愛子の当夜の行動は同旅舘内の平穏を著しく害すると共に客に対し安眠を妨げ不快嫌悪の念を抱かせる等営業の妨害となるものであるから、同女を取り鎮めることは支配人たる被告人の前記職責に属することは云うまでもないところであるけれども、それだからと云つて被告人が同女の顔面を殴打するが如き所為も所論の如く法の許容する正当業務であるということはできないが、併し乍ら其の際の状況に照し女中佐々木愛子の行動は同旅舘主の有する営業権に対する急迫不正の侵害であり、被告人は斯かる侵害を排除してその営業権を防衛し以て営業上の利益を保持し管理業務を遂行するために本件殴打の挙に出たものであることを認め得られるところ、右殴打による防衛手段は、右侵害に対する防衛の程度を越えてなされたものと認めるを相当とする。よつて本件はいわゆる過剰防衛に該当し刑法第三十六条第二項の規定を適用すべきものである。原判決の記載によれば本件につき右過剰防衛の認定をなしていないことが明らかであるから原判決は此の点において事実の誤認が存し此の誤は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから論旨は結局理由あるものと謂うべく原判決は破棄を免れない。
よつて他の論旨に対する判断を省略し刑事訴訟法第三百九十七条第三百八十二条に従い原判決を破棄し同法第四百条但書により当審において自ら判決する。
(罪となるべき事実)
被告人は加賀市山代温泉所在、伊豆蔵信一経営にかかる温泉旅館いづくら本館の支配人をしていたものであるがその間に
第一、昭和三十三年四月十二日頃の午後六時頃右旅館別館紅柿荘の女中部屋において、被告人が同別館事務員岩見二三子(二十一年)に電話をかけた際同女が不遜な態度に出たことに憤慨し、両手で同女の首の辺りを締めるようにして押し、以て同女に対し暴行を加え(昭和三十三年十月九日附起訴状公訴事実第二)
第二、同年十月下旬頃右いづくら本館台所において同旅館女中佐々木愛子(四十四年)が浴客から酒の注文を受け乍ら勝手に之を拒否したため被告人の指示により同客の係り女中を他の女中に変更せられたところ、同女はこれを憤慨し飲酒酩酊の上深夜被告人に対し自分の馴染客を他の女に世話した旨大声にてわめき騒いで反抗し、被告人の制止説得にも容易に応じなかつたので、被告人は旅館主の有する旅館営業権に対する同女の急迫不正の侵害に対し支配人たる自己の立場より宿泊客の迷惑を慮り前記同様の営業権を確保防衛するため防衛の程度を越え、同旅館内において同女の顔面を平手で数回殴打し以て同女に対し暴行を加え(同起訴状公訴事実第四)
たものである。
(証拠の標目)(略)
(法律の適用)
被告人の所為を法律に照すに判示第一第二の各所為はいずれも刑法第二百八条罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するところ、所定刑中各罰金刑を選択し、以上は刑法第四十五条前段の併合罪であるから同法第四十八条第二項に則り所定罰金合算額以下の範囲において被告人を罰金弐千円に処すべく、右罰金を完納することができないときは同法第十八条に従い金弐百五拾円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置すべく、原審における訴訟費用中証人川崎きみを同伊豆蔵節子同石黒照子同岩見二三子同佐々木愛子に支給した分は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文により被告人に負担せしめる。
(無罪部分の説示)
本件控訴にかかる原判決有罪部分の中原判示第二第四にかかる公訴事実即ち
被告人は昭和三十二年九月中旬頃いづくら旅舘男湯前廊下において同旅舘炊事婦の竹中重子に対し同女が浴客の求めにより湯の温度を上げようとして源泉調節バルブの把手を廻していたのを目撃し「何故お前はそんなものにさわるか」と申し向けて同女を引摺り倒し其の上に馬乗りになつて頭部を数回殴打し更らに両手で首を締め上げる等し以て同女に暴行を加え(昭和三十三年十月九日附起訴状公訴事実第三、罪名暴行、罰条刑法第二百八条)
昭和三十三年七月上旬頃の午後十時三十分頃いづくら旅舘本舘炊事婦小舘清子(三十五年)が酒に酔うて同家台所調理台にもたれ寝ているのを見て憤慨し同女を同旅舘女湯に拉致して脱衣場に入れ入口戸を締めて其の外部から首廻掛金を掛け同女をして脱出不能の状態にし以て翌日午前七時頃まで同女を不法に監禁し(同起訴状公訴事実第五、罪名不法監禁、罰条刑法第二百二十条第一項)
たものであるとの点については前記説示のとおり犯罪の証明が十分でないから刑事訴訟法第三百三十六条により無罪の言渡をしなければならない。
以上の理由により主文のとおり判決する。
(裁判官 山田義盛 辻三雄 干場義秋)